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推敲不足

短い時間で一気に書き上げるから、あとで釈明と修正に追われそうだわ。
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残酷なアンチのテーゼ(2)

引き続き、自分は安易な『テンプレ』を憎む。

https://www.nishinippon.co.jp/item/o/448855/?fbclid=IwAR17fszxViog0ukbcooIq53AYsypUV4On0gQDsUkpXMrhf6aG44EdNvG63o

自分は「人が自然に弱みをさらけ出せる社会」を志向しているが、「人以前に自分が嫌」という感情も当然尊重されなければならない。
上記記事のカタさは一体なんだ。
逆手にとってサボる子が多かったのだろうか…?

https://read-to-someone.com/archives/609?fbclid=IwAR1FxqIDxn2gUAnx12FcsG3qt1IUosGE2BV-Vq6dW1EJNCZTeG6pfPK_Ojg

許しがたい犯罪に出くわしても人生は終わらない。
型にはめてくれるな。
人生の決定権はその人にある。
被害者にトラウマの後遺症が全くなく、無理のない笑顔を見せられるようになれば、それは歓迎すべきことだ。

一方で、「被害者が立ち直ったから加害の事実は軽くなる」わけではないことに注意。「大したことじゃない」なんて口が裂けても言ってはならない。
またその逆に、逮捕されても離婚されても人生は終わらないのも事実。
読んでいる方、混乱してきたと思うが、『被害は人生終了』でもなければ『加害は人生終了』でもない。
自分は安易なテンプレに反対する、という点で一貫している(はずだ)。

「見せたくない」系の話をもう2つ。

http://rysh.xsrv.jp/fuwari/archives/4564?fbclid=IwAR275Ntqp6YK_uQX83ui5b3W43tk5QHMDskNRn3JrKHyNop0Y3t6jzAV8OE

「そりゃ見るよ」という素朴な感情をあえて否定させてもらう。
ろくに力になれないのなら、邪魔をせず、見ないでやれ。
「困っている人を無視する」のは常に冷たさであるとは限らない。
これも安易にテンプレ。
見ないでやる優しさだって、確かにある。

http://tmbi-joho.com/2019/05/27/itteq-swim03/?fbclid=IwAR0IrAL9SoLjBRt0bxxUpUihMufSJR7dtb8DKRjpDK-0Eqr_T9jlcgUc04Q

前の記事で道徳教育への不満をぶちまけたが、「応援最高!」なんてのもテンプレだ。
応援どころか「視線も邪魔」と言い切ったバービーは偉い。
(バラエティーだからこそなのだ、ドキュメンタリーは意図に合わない事実はカットされる)

「その方が都合がいいから」と正論・標語・綺麗事を喧伝して、「やっぱそうは思えないわ」という層を無視してばかりしていると、いつかしっぺ返しをくらう。

https://lite.blogos.com/article/384604/?axis&p=2&fbclid=IwAR2aiAdYAp6vP_RqRp20364RbmEChZ3CC6aQ5BwgpiZlEfXDWVr3_dkflO0

なんたる暴走。
あと、こちらの方の道徳教育批判も参考になる。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2019/05/06/115952?fbclid=IwAR1LCqjF8qKXrpEvx8QVC63OCXNyL2Q4XvyX7xoHJ0R9M64KVDIkFF_fND4

ただし、こちらの方の考える人権教育は自分の考える人権教育とはちょっと違う。

残酷なアンチのテーゼ(1)

いきなりだが、自分は現行の道徳教育に不満がある。

「仲間の協力と心の持ちようでなんでも解決」
「よいことをすれば心は浄化される」
という物事を単純化して考えようとする姿勢が気に入らない。

えっ、何が?
素敵なことじゃん、と思われるだろう。何の問題があるの、と。

第1点。
マイノリティの存在を軽視してしまっている点。
「仲間の力」は確かに大きいし、大切。それは認める。
だが、うちのMを見ていると「一人にしてほしい」「仲間といると気疲れする」ということもあるし、どの子にもそう思うときがあるだろう。
(別に「いつも一人がいい」「ぼっち最高!」というわけではない。極論ダメ)

しかし、怒涛のように押し寄せる「仲間最高!」のメッセージは「仲間を疎ましく思ってしまう自分は悪い人間なのか」というメッセージに容易に転化してしまう危険性がある。

教科書や授業者は「整理整頓すると気持ちいいね」のように主張するも、Mのように「ちらかし大好き。気持ちいい」な子は「自分の素直な気持ちは、存在してはならないのか」と自己嫌悪に陥る可能性もないとは言えない。

「いやそれは悪く取りすぎだろ」と思われるかもしれないが、そういう受け止め方をされる可能性を全く考えずに正論で一点突破しようとするところが短絡的で不満なのだ。

「そう感じない人もいるよ(ときもあるよ)」というマイノリティが生き残る余地を残すべきなのだ。


第2点。
「議論する道徳」ではなく「所見を書く道徳」。

第1点の問題は、実は厳密には、禁止されているわけではない。
ただ、Mのようなひねくれマイノリティーである子どもが授業の作法をわきまえて、理知的に異議を唱えるとは思えない。また、授業者が、

「誰でも時に煩わしく思うし、人によっては常に煩わしく思う人もいるが、概ね仲間は大切である」

というぐにゃぐにゃしたまとめを許すのか、というハードルがある。
また、それとは別に授業者が「教科書の趣旨に異議を唱えました」と連絡表の所見に書いて、それ保護者に見せんのか、という話もある。

「仲間の大切さに気づきました」
だったら無難だが、
「仲間は大切だが、ママ友付き合い等、人付き合いにはトラブルがつきものだという意見を出しました」
と書けるのか、という話。
クレーム、怖いね。
面倒だね。

結局、綺麗事に収束させようという意図を感じる。議論をさせたいのであれば、所見を書かせない方が自由闊達な授業になる…はずだ。


第3点。
どの教科書でもそうなのだが、模範的とされる子らが「従順」すぎる点。

冒頭に挙げた、
「仲間の協力と心の持ちようでなんでも解決」
「よいことをすれば心は浄化される」

そういうことにしておけば、例えば「インフラ整備が不十分だ」なんて公的責任を問う声は出てこない。
世の中の多くの問題を「自分たちのせい」にすることができ、公的機関としては「自分たち仲間の協力や気持ちの持ちようで解決してください」と突っぱねることが可能だ。


というわけで、以上3点。
全くもって気に入らないのだが、「そういうことにしておけば、庶民は我慢を重ね、世の中としてはうまく回る」というのも事実である。
フィクションと知りつつも教条的な道徳観を伝えることは自分もある。

そこは難しいのだが、それでも「そうは思えねぇわ」というマイノリティを尊重し、綺麗ごと所見から解放され、公的責任を免責しない道徳教育を自分は望む。

ハンコとサイン

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2019/06/29/185106

結論「リスク管理上、ハンコでお願いしたい」

リンク先のリンク先

>学校提出書類すべてが押印不要

本当なのか?
たとえばうちの場合、HP掲載許諾同意書やアレルギー児童の給食対応確認表には押印が必要だし、保護者ではないが出席停止(インフル等)解除用紙は医療機関のハンコが要る。
今後これらがハンコ抜きになっていくなら、プールカードも脱ハンコの流れには逆らえまい。

>ハンコのがセキュリティ脆弱

一理あるし、学校側の説明不足は問題。
しかし、自分は個人的にサインは困る。
保護者のものか児童のものか判断するのが担任の責任になる。場合によっては失礼だったり、児童がキレて口論になったりする。
時間と手間と感情と判断力の無駄遣い。

はっきり言って、検温がテキトーだろうが、ハンコを押したのが児童本人だろうが(検温してなかろうが)、学校側に区別がつかないのだから、そのことで問題が起これば保護者責任だ。
裁判所も「ハンコが保護者の手によるものか児童の手によるものか、一人ひとり確認せよ」とはおっしゃるまい。

ぺたぞうさんがモンスター扱いされたのはタイミングが悪かったと思う。
学校側を庇う気はないが、ルールが明記された瞬間は何も言わず、守れなかった後で質問した場合、警戒を受けるのは自然だと思う。
(プールカードにメモったからセーフ、というのでなく、正式に許可を得るべきだった。だからと言って学校側の対応は擁護されないが)

>毎日ゴーグル使用をお願い

なんじゃそりゃ。いらんだろ。
要るにしても、一シーズン一回でいいだろ。

>体操服の下に肌着を着てはいけない

なんじゃそりゃ。

リンク先。

>見事に忘れていった。草

この、児童の判断を尊重している点は好感が持てる。きっと今後は気をつけるようになるだろう。
草はいらんが。

>事件事故が起こったとき、学校は責任を逃れたいからだろう

「責任を逃れたいと思ってはいけませんか?」と言いたくなる。こっちも健康観察はするし、OKのハンコがされていても、入水制限する場合はある。
しかし、一方的に学校側だけが責任を追求されるのはフェアではない。
約款には免責事項ってもんがあるでしょうが。

>ぼくは教育という営為はマニュアル的な対応ではない、と思っている。一人一人の子どもの発達と成長にあわせた対応が教育のはずで、だからこそ画一的な中央統制ではなく、教育委員会は独立した行政機関なのだし、学校は一つ一つが独立した権限を持っているし、教師は専門家として広範な裁量を持っている。

この指摘は重要。
例えば自律的で努力を続けたA組が何かご褒美的な体験(プールで自由時間をもらえた等)をしたとして、荒れ放題で言うことをろくすっぽ聞かないB組が「平等ではない」と文句言うのはおかしいと自分は考える。
が、実際(自分たちの所業は棚に上げて)クレームは来る。
職員会議で「全クラス自由時間はなし、ということでお願いします」なんて「共通理解」がはかられたりする。

平等と公正の混同が甚だしいのだ。

今回の例で言えば、「サインは児童がするかもしれませんから」と説明したとする。

ケースA
「ハンコだって児童の手によるかもしれないじゃないか」
「いや、ハンコの管理は保護者責任…」
「児童が100均で買ってきたんだ。禁止しろとでもいうのか!」
「いや、提出までに押してないという保護者の責任が…」
「うちは忙しいんだ! 毎回気づけると思っているのか! 教師は楽をするな!」

ケースB
「うちは子どもの自主性を尊重しているんだ! 子どもに押させる!」
「じゃあ事故の責任は学校ではなく児童の自己責任ということに…」
「ふざけるな! 子どもの判断を言い訳にして教師は楽をするな!」

といった、なんのための議論だか分からん話になってくる。

不毛である。
が、脱ハンコ社会になったとき、どうなるのだろうか。
個人的にはネット予約で入水許可が得る仕組みがいいな。

運動会縮小論

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2019/06/02/122055

先に結論めいたことを書いておくと、

1.負担軽減のため、通常の授業参観程度に規模を縮小すべきだと思う。
2.行事ごと全般、従順アピをやめて、普段通りの姿を見てもらったらいいんじゃないか。

というところ。
以下、オマケ。
リンク先のリンク先から。

>気を付け、前にならえ”は軍式の訓練の名残と言われているが

軍式だからダメ、とは思わない。
有効でさしたるデメリットがなければ構わない。

>「集団作りの効果」とは、どんなことを言っているのだろうか。どうもはっきりしない。

いや、もやっと分かるだろ。
集団のルールを守って行動するとか、協力の大切さを実感するとか、各自の役割を果たすとかでしょ。

>「運動会って、保護者を喜ばせるためにやっているんでしたっけ?」という問いだ。肝心の児童生徒のことが置き去りにされていないだろうか。

この指摘は重要。
自分たちは保護者の目を怖がりすぎているのは確かだ。

主に熱中症対策だが、PTA種目、全校種目、応援合戦等から削り、保育園のように午前中で終了するような運動会で十分だ。

>キビキビと動き、教師の言うことをきく児童を育てることに、いつの間にか相当な時間と労力をかけている学校はあるのではないか。

ここは少し微妙で自分も少し揺れている。
「見てもらう」云々はどうでもよいが、「みんなきちんとやっている」という同調圧力で集団行動ができるようになる子もいれば、逆に同調圧力の強さが嫌で飛び出してしまう(見学になってしまう)子もいるからだ。

ダラダラダルダルで意見を聞こうとしない、当然統率もされぬ児童集団になる危険性はあるが、大まかな方向性としては多様な苦手意識を持つ子らに優しい学校へと向かうのだろう。

>アクティブラーニングとか、主体性を育むことが一層大事になっている時代に、これではチグハグだ。

これは賛成。子どもの自己決定権を尊重すべき。
尊重するから子どもたちよ、自分たち同士もきちんと尊重し合ってくれ。

続いてリンク先。

>自分の子どもの出番が一瞬である上に、親が運動場にテントを林立させて群がっていて(ぼくもその一人)、競技フィールドに近づけないために子どもは遠くから豆粒のようにしか見えず、それをカメラに収めようとすると直接肉眼でろくすっぽ見ることもできずに終わってしまうからだった。

小規模校ならよい、ということになるが、それは小学校のせいじゃない。
少子化時代に小学校の数を増やすというのも非現実的だし、それこそ「保護者のためにやってんじゃない」という話。

>つまり、自分の子どもはもちろん、クラス全体の取り組みが「集団」として保護者にも見えているし、さらにバラバラの個体としても自分の子だけでなくまわりの友達、友達との関係が「成長」「抗争」「葛藤」「協力」などとして見えてくるのだ。

個人的にはそういう形の方が好ましいが、やはり学校規模によっては難しい。

>ただ、この点については、ぼくがもっと小学校の地元の保護者たちとのつきあいをディープにしていたら、他人の子どももよくわかっていて、もう少し見えていた風景は違ったかもしれない。

そうした視点があるのはこの筆者の自覚的なところで自分もそのとおりだと思う。
スポーツでもコンサートでも知ってるメンバーが多いと楽しかろう。
子どもからもたくさん話聞いてやってほしい。

>これは「競争」=勝敗のゲーム=スポーツではなく、全て自分に課した課題をきちんとクリアできるかどうかが問題となる。

個別のめあてをもつ、というのはとてもよいと思う。
徒競走だって

「最後まで腕を振り続ける」
「ゴールの後ろ5メートルまで走る」
あるいはうちの娘のように
「ゴールする」

がめあてでもよい。
それぞれ客観的に評価できれば申し分ないのだが。

>親は手伝わない。園からも「日曜日とかにこっそり親が手伝って練習とかさせないでください」と釘を刺される。

これは「手伝ってもいいんじゃないの」と思う。

>勝敗を真剣に競わない

グダグダな表現運動は、運動会の問題点ではなく、その学校の問題点である。
きつい言い方になるが、楽しさ置き去りの表現運動は、本番前に半分失敗している。
(表現運動でも、個別のめあてがあってよい)

>ほぼクラスによって初めから分けられたブロックには、最初からかなりの能力上の優劣差が存在する。

それもその学校の問題。
普通はタイム順のガチンコ勝負。そりゃもう決勝係(順位決定係)の先生が困ってしまうくらいに。
(こちらも写真判定もできず、ビデオをもとに抗議されたら謝るより他に手はない)

>勝敗によって強さを決めるエトスを持つスポーツというものは、勝敗という明確な基準で勝者と敗者のコントラストを浮かび上がらせ、敗者に敗北という害悪を与えるという点で「本質的暴力性」(川谷前掲書p.124)を持っている。

これはスポーツに限った話ではない。
例えば学力テストの都道府県別順位を「一喜一憂しろ」とばかりに発表するのも「本質的暴力性」である。
社会自体が「本質的暴力性」を持っているので、公教育も影響を受けざるを得ない。

リンク先の主張はやや散漫で、運動会イラネと本質的暴力性をどうすんべという論点が混在している。
自分は運動会自体は冒頭に書いた通り。
そして「本質的暴力性」については、

1.暴力反対と全否定することまでは難しい。
2.ならばせめて、親も教員もマスコミも自覚的であるべき。
3.そして、親も教員もマスコミも、個別のめあてをもっと重視することで乗り越えていくもの

と考えている。