3けたの数 (小2算数 東京書籍)

<テープ起こしと気づき>

(課題提示時)
T「言ったら駄目よ」
→言わなくてもよいクラスにする必要がある。

(机間指導時)
C「全部10のかたまりだよね?」
T「わかんないよ。数えて」

T「早いな。あとで数え方教えて」
T「かいていったら? ここまででいくつ、ここまででいくつって」

C「ペケしていったら分かるじゃん」
C「10が10こで100じゃん」
T「ほー」

C「こっちのページも合わせるの?」
T「そう」

(全体交流時)
C「10のまとまりが23こで230」
T「どれのこと?」←もう少し泳がせてもよかった?
C「ん?」
T「バトンタッチしようか。どこにあんの?」
C「ん?」
T「あらあら。だれか分かる?」
C「これが25こで…」
T「いやいや、どれが10のまとまりなの?」
C「これ」 ← ようやく○で囲む。「23こ」というのをいったん置いて「10のかたまりは例えばどこか」を問えばよかった?
T「じゃあ23こは?」
C「これとこれと…」

T「じゃあ黒ペンで○して」
C「…ここが100…」
T「…」
C「23こ」
T「じょうずにできました。ありがとう」

T「さっき○さんが途中でここが100って言ってたんだけど、どこが100?」
(別のC、赤ペンで100ずつ丸をする。赤ペンはミスができないのでヒヤヒヤ見守る)

T「ほかの数え方も見ていきます」
C「ページを片方ずつ隠す」
C「バツバツしていった」
C「左右で分けた」
C「10のまとまりが10こで100」
T「10が10こで100なのかー」
C「に、し、ろ、は、と…で数える」
↑この児童が「に、し、ろ、は、と…」の二つの説明にこだわり、少し時間がかかる。

T「振り返りを書きましょう」←付箋配布

<児童の振り返りより>

「2,4,6,8,10…で数えたけれど、10のまとまりで100を作る数え方が分かった」
「(数えたクリップに)点をうって、10のまとまりをつくるのが分かった」
「数える時、10のまとまりの○をつかうのが分かった」
「最初はわからなかったけど、10で分けて考えるのが分かった」
「200とか30とか5をたし算すればいいのが分かった」

「はじめから、200はぜったい行くと思った」
→見通しが持てていた子ども。

「くらいのへやが百・十・一と書くのが分かった」
「百のくらいがあることが分かった」
→「知ってるつもり」で知らなかったこと(百の位)を確認できた。

「10のかたまりが20こよりも多かったのでびっくりした」
→『かたまり』にしては隙間がある?(まとまりの方が適切?)

「(数える前は)こんなに多いとは思わなかった」
「(235ことは)すごく多かった」
「数が多くてつかれた」
「クリップを数えるのがむずかしかった」(×4)
→「課題のハードルの高さ」としては低すぎずよかったと思われる。
今後、「10や100のまとまりを作ると見やすくなる」を実感させたい子たち。

「またこのべんきょうをしたい」
→意欲的でグッド。ただし、定型文になっている可能性も。

「10のまとまりが70こあると思ってしまった」
「(途中から)多すぎて分からなくなった」
→次時からチェックしたい子ども。
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「スイミー(小2国語 光村図書)」

※例によって誤答を含む。

①初発感想

「みんな赤いのにいっぴきだけまっくろ」
→ふしぎだな。

「およぐのはだれよりもはやかった」
→くろいのにはやい、というのはすごい。

「こわかった。さみしかった。とてもかなしかった」
→かわいそう。

「にじ色のゼリーのようなくらげ」
→見てみたい。すごい。

「水中ブルドーザーみたいないせえび」
→つかまえたい。

「かおを見るころにはしっぽをわすれているほど長い」
→そんなにも長かったんだ。

「出てこいよ。みんなであそぼう」
→こわくないのかな?
→(会ったばかりなのに)友だちみたい。

「だけど、いつまでもじっとしているわけにはいかないよ」
→かしこい。ゆうきがある。かなしいところをのりこえたのがすごい。
→かっこいい。考える力がある。

「海でいちばん大きな魚のふりをして」
→いい考えを思いつくのがすごい。
→かっこいい。
→ばれずにれんしゅうできたのもすごい。

→思いつくのもはやかった。

「ぼくが目になろう」
→すごい考え。

スイミーはマグロに食べられたんじゃないの?

スイミー(小2国語 光村図書)

②スイミーはどんな魚か。

(教科書記述より)
「まっくろな魚」
「およぐのがだれよりもはやい魚(まぐろからにげた魚)」
「(ひとりぼっちで)さみしかった魚」

(児童の考え)
にげたのはスイミーだけ → 「生きのこった魚」
だんだん元気をとりもどした → 「(気もちが)強い魚」
スイミーは見つけた → 「見つけるのがうまい魚」
出てこいよ → 「ゆう気がある魚」
じっとしているわけにはいかない → 「やさしい魚」
大きな魚のふりをして → 「頭がかしこい魚」「すごいことを考える魚」「くふうする魚」
はなればなれにならない、もちばをまもる → 「教えるのがうまい魚」
大きな魚をおい出した → 「やくに立つ魚」「すごい魚」「小さな魚のえいゆう」

みんないっしょにおよぐんだ → 「思いつくのが早い魚?」

特別支援学級をどのように紹介するか

今回の記事は賛否分かれそうだなぁ。
【予告】炎上したら消します。あと、どんぐり無関係なので、どんぐり関係者に迷惑がかかったら消します【予告】


「Mに障害がある」と分かった時、不思議とショックはなかった。
意外なほど冷静で、多分「ここでショックを受けること自体が差別なんだろう」と自制心のようなものが働いたからだろう。
人権に配慮しなければならない、という過剰なまでのメタ認知。
まるで職業病だ。

ただ、その後の子育てで、「Mの子育てはKの400倍つらい」と分かってくるにつれ、「障害なんてなければいいのに」とこれまで10万回くらい思ってきた。
「障害があるんだから、花粉症とかインフルとか皮膚炎とか、別の病気はご遠慮いただきたいわ」と思った。
Mの奇声奇行を周囲から奇異な目で見られるにつれ、「そりゃ変だと思うわな」と分かるだけに、かえってみじめな気持ちになった。


さて、本題。
「特別支援学級ってなんであるの?」と問われた場合、何と返すか。

A1.「障害者が少人数で勉強するところだよ」
⇒「障害者という言葉が偏見を生むのでまずいですね」

A2.「障害を持つ子ども達が少人数で勉強するところだよ」
⇒「障害という言葉が一人歩きしてしまうのでまずいですね」

A3.「誰でも得意苦手があるでしょう? 苦手なことを少人数で勉強するところだよ」
⇒「苦手という言葉がマイナスイメージを植え付けるのでまずいですね」

A4.「その子に合った勉強をするところだよ」
⇒「『どういうこと?』とつっこまれたら『苦手』のマイナスイメージに関わるのでまずいですね」

A5.「少人数で勉強するところだよ」
⇒「少人数教室と混同されて、まずいですね」


どうしたってダメじゃん。
障害者家族、特に障害児の保護者の方が「障害という言葉を出さずに説明して欲しい」と思う気持ちは分かる。
それが原因でいじめられたら困るから。

でも、それって、いじめや偏見がいけないのであって、障害が悪いわけじゃないでしょ。
Mは自閉症スペクトラム。
その中のカナー型自閉症。
医療的に言えば、脳に障害がある。

「苦手」も多いよ。事実じゃん。
Mの周囲の子には「苦手」も含めて分かってほしいよ。
「苦手」があったらいかんのかい。
マイナスなのかい。
誰だって何かしらあるでしょうに。

自分だってたくさんあるよ。
でも、ナルシズムと思われるかもしれないが、苦手も含めて自分だって受け入れているよ。
「マイナスイメージを植え付けるから、苦手から目を逸らしましょう」なんて現実から遠ざかるじゃん。
その人自身を理解してもらうチャンスを放棄してるようなもんじゃん。
(暗黙の了解で分かってもらう、という手段までは否定しない)

自分の仕事柄、「障害という言葉を出さずに説明して欲しい」という気持ちには向き合わねばならない。
でも、一障害者家族としては「そんな風潮に屈したらいかんでしょ」と思う。

医療・福祉の現場では障害は「ある・なし」で判断される。
しかし、教育分野では「障害はグラデーション」だ。
濃い・薄いはあるものの、誰しもが持っていると考えた方が自然だ。
お互い様なのだ。

「自分はこれが苦手です!」
「改善しようとしています(別のことでカバーしようとしています)!」
「困難なときは支えて欲しいんです!」

と、言えなくてどうする。
「迷惑そうに思われたら怖いから、黙ってます」でいいのかい。
いずれ大きなトラブルになってしっぺ返しをくらうんじゃないのかい。


最後にもう一つだけ。
障害は「環境」が作る。
全建物にエレベータが設置されて、車いすの人は困らない時代が来るかもしれない。
技術革新で、自閉症児も不自由なく自己表現できる時代が来るかもしれない。
周りの人間の心がけや行動次第で、障害は増えもするし、減りもする。

障害は選べないが、環境は選べるし、変えることができる。

「お前ら障害障害って他人事みたいに言うけどさ、障害を増やすも減らすも周囲の人や環境次第なんだぜ?」

【追記】
こんな記事を見つけた。
ちょっと筆が滑り気味で、ついていけないところはあるが、『障害は「環境」が作る』という点では同意。
ただし、「環境」設定には労力と時間と技術と資金と…いろんなハードルがあることもまた真実。
「ちょっとした工夫で、障害なんて気にならなくなる」というお花畑なストーリーは信じない。

優しい人って…

以前母親が言っていた。
「優しい人って、自分にも甘い」
その時は「へえ、そんなもんか」と思った。
いや、どちらかと言えば「いや、優しい方がいいだろ」と軽い反発さえ覚えていた。

しかし、今思う。
優しい先生の中には「仕方がない。少しくらいは大目に見てやるか」というスタンスではなく、単に「基準が甘い」人がいる。

例えば、全然反省していない子。
例えば、危険(になりうる)行為。
例えば、とっちらかった教室(自分はストローの袋を荒れのバロメーターにしている)。
例えば、サボり。
例えば、ちょっとした悪口、軽口。
「ちょっ…これ、放置してたらヤバいぞ」という点に気づかない。

一部の「優しい先生」は言わば、黄色信号に気づかないまま運転しているようなもんだ。
危機感が薄い。
結果、子どもを見れていない。

もちろん、怒鳴りまくりがよいとは言わない。
優しい先生の方が共感を呼びやすいケースもあるだろう。
策を弄さず、ストレートに思いを語った方がうまくいくこともある。
しかし…
なんというか、この仕事を続けていくには「したたかさ」が必要なのだと思う。
信じやすい人、だまされやすい人、理論(理想)に拘泥しすぎる人は向いていないのかもしれない。

いや、偉そうに言っている自分自身、この10年くらいは黄色信号に気づかずにヒヤリハットを続けてきたわけだけどね。

雑感と怒涛の一週間

その1.環境設定について

「進路保障は人権教育の総和」という言葉がある。
部落差別やいじめの問題を解決しようとする姿がイメージされる人権教育だが、「生活環境が原因で学力つかなかったら、結局その先がない」という現実と戦うため「学力保障」「進路保障」という取り組みもある。
「学力や生活力を高めて、未来を保障しよう」的な。
(それは平均点勝負の学力向上とはまた違った意味があるのだが、ここでは触れない)

仲間づくりや反差別で「大丈夫だよ。支え合って生きていこうね」という取り組みだけでは不十分だということだ。
苦しい生活環境まで見た上で、それでも何とか学力を保障していこう、と。
別にのぞき見趣味で言ってる言葉ではない。
まして、「何やってんだ、生活を改善しろよ!」と文句が言いたいがためではない。

どんぐり倶楽部の「環境設定」も、「なんぼどんぐりやってても、生活環境がこれでは伸びんぞ」という現実があってのことなのだろう。
どんぐりの理念や教材が「人を安心させるもの」であってほしい、という思いは分かる。
そして、「何やってんだ、環境を設定しろよ!」となってはいけない。

でも、「やれるところから、1つずつコレと決めて、環境を見直していかれてはいかがですか?」と誰かが言うのもまた分かる。
言いたかなかろうし、嫌われるけど。
配慮は必要だし、個人差も考慮しなければならないが、「環境なんて気にしなくていい」というのもまた違うのだろうな。

【5/31追記】
言葉と向き合って絵図を描く→見る→動かすという一連の流れは「その時その場の在り方」の中で生まれることは分かる。
(実体験の豊かさが関わってくるとは思うが)
しかしそれが、「生活環境、文化的な環境、遊びの環境」の影響を(心配するほどには)受けない理由になる、というのは分からない。
日常生活が人格否定の悪口だらけの子でも、暴力が飛び交う家庭環境でも、ネトゲ廃人でも、グロテスク動画の愛好児童でも、昼夜逆転生活でも、「世界から切り離されていなければ」、それだけでよいのか。「だいじょうぶ」なのか。
ちょっと楽観し過ぎなような…

【6/2追記】
自分は虐待やら家庭内暴力やら、ゲーム・ネット三昧の家庭も含めて話していますが、
「そこそこ環境が整っている家庭は、それ以上神経質になることもないのではないか」という点では同意です。
「環境設定が徹底できなければ幸せになれない!」と思っている人は環境設定が「できても」幸せになれないのでしょう。

その2.生活指導について

自分の学年のあるクラスでいじめが起きた。
詳細は書けないが、とにかく疲れた。

生活指導という最優先課題でさえ、多忙化の影響は受けてしまう。
そうそう簡単に、

「こいつらだけ取り出して話するから、みんなは授業中ドリルでもやってろ」

というわけにはいかないのである。
他の児童に、

「おお、アイツ呼ばれたぞ。何かやらかしよったな」

と思われるのは得策ではないのだ。


保護者の「しっかり事情を聞いて、確認してください」という思いに応えようと、休憩時間に聞き取る。
短時間だ。
必死だ。
本当に余裕がない。
「しっかり確認」する時間は、ありそうで殆どないのである。

放課後は放課後で…

・家庭訪問3件
・学校で加害者家庭と話し合い

・学校で被害者家庭と加害者家庭を交えた話し合い

・別の加害者聞き取り、
・学校で被害者家庭と別の加害者家庭を交えた話し合い

・学習規律確立といじめ防止のための学年集会開催
・運動会準備

…怒涛の一週間だった。
いかに、生指は後手を踏むと泥沼になるかが分かる。
生指対策だけで、他のことが何もできなくなってしまう。
つらかった。
0次対応の大切さが分かる。


その3.運動会のダンスについて

(1)隊形移動で苦戦した
クラス数が多いと、特定のクラスが邪魔で動けない。
さらに、「列移動」にこだわるか、「バラバラ移動でもOK」とするかで意見が分かれた。

トラックを利用した二重円を作りたければ、縦に並べるよりも、横に並べて、らせん状に動かせばいいのが分かった。
踊りをシンプルにしたのが救いだった。
あんまり決めたことを朝令暮改できんのもつらい。

予想よりもギリギリでの完成となったが、まあ、結果オーライ。
楽しんで踊ることができました。


(2)低学年の準備は大変だ
2本の棒で円を描く、石灰でラインを引く、ミニコーンを並べる、オーディオの用意をする。
これを全部一人でやろうとした…わけではない。

わけではないのだが、その2で挙げた生指の関係で、相談の時間が取れず、「朝早く来てそっちでやっといてください」がどうしても言えずに苦労した。
また、ラインを書いても書いても休憩時間に消されてしまうのがつらかった。

役割分担を積極的にお願いせんと、「働き方改革」にならんな。
自分が潰れてしまうところだった。