ちいちゃんのかげおくり(最終章)

第10時。
課題「第5場面は必要か」

(解説)
ちいちゃんの死後、ちいちゃんが最後にかげおくりをした場所は小さな公園になっていた。
そしてそこできらきら笑っている子どもたち。
第5場面は果たして必要なのか。

(必要派)
「ちいちゃんがなくなってから、『(日本は)どうなったか、その後何がおこったのか』分かるから。」
「空襲で家とかこわれたから、『その後どうなるの?』と(気に)なるから。」
「今の子ども達がどうしてるか、気になるから。」
「ちいちゃんがかげおくりをしていた場所はどうなったのかな、と思う人もいると思う。」

⇒ A 続きが気になるから必要

「戦争中と比べて、平和になった証拠なので、必要だと思う。」
「『前より家が建っています』で、いっぱいなくなった家が今はある、と書いてあるから。」
「ちいちゃんが生きていたころよりも、しあわせになっていますよ、とつたえるため。」
「『小さな公園になっています』と(平和のしるしのように)書いてあるから。」
「戦争のころよりも、今はだんだんかいふくしてきている、ということだと思います。」

⇒ B 戦争中と対比するために必要

「ちいちゃんが天国から見て、喜ぶと思う。だから読者も最後まで読まな(見届けな)あかんと思う。」

⇒ C 読者の想像をふくらませるために必要

(不必要派)
「ちいちゃんと(直接)関係ないからいらないと思う。」

このように意見を集約して掲示したところ、(不必要派)の児童が「僕、このときはこう思ったけど、なんか悪口言ってるような気がしてきた」と話してきた。「いろんな意見があってもいいし、意見が変わってもいいんだよ」とだけ伝えた。
いい捉え方をすれば、友達の意見を聞いて視野が広がったということだが、同調圧力のような雰囲気を感じたのかもしれない。

個人的には「ちいちゃんのかげおくり」はもう終わったわけだから、第5場面がなくても問題はないと思う。
が、戦争がどこか遠くの星の話じゃなくて、今の自分たちとつながっている出来事であると感じるためにはやはり必要なのだろう。

(追記1)
授業時、Jアラートの話だとか対ミサイルの避難訓練だとかを別の時間にしていたので、戦争を身近に感じられていいような悪いような、複雑な思いがした。

(追記2)
ちいちゃんとは直接関係がないが、全校で観劇鑑賞があり、子ども達が「ちいちゃんの劇をしたい」と言い出した。
台本はそのままで、白いタスキや小さな日の丸だけを用意して、役決めや動きの指導をした。
(空襲のシーンは難しかった。ある程度器用な子を配役する必要性も、正直感じた)
思ったより時間がかかったが、より深い状況把握ができたように思う。

ただ、ビデオに録画して見たときに、うれしくてか、変にテンションが上がってしまったのは残念だった。
おそらく「メタ認知」に慣れていないのだろう。
自分を客観的に振り返る、という経験はもっと必要なのかもしれない。
スポンサーサイト

Kの授業参観に行ってきた

運動会以外で小学校に入るのは実は初めて。
遊びに行くことは山ほどあったが。

ただ、この日Mが熱を出しており、残念ながら夫婦そろって行くことはできなかった。
さて、学校まで歩き、受付に名前を書き、初めて教室内へ。
学びの共同体の意向なのだろう、教室の前半分に机をコの字型で終結させ、教科書を取り出すことさえ難しいくらいに詰めている子どもたち。
と、先客がいた。
お一人、女性の方。誰かのお母さんだろう。


(1)【算数】担任、指使用に寛容な態度を示す【朗報】

「それでは、K君。前に出て説明して」

自分が教室に入った瞬間、いきなり当たるK。
思わず苦笑い。
サービスなのだけれど、ちょっと露骨すぎない?(笑)

「12このどらやきのうち、3こ食べて、残りは?」という問題。
減減法(引いて引いて法)の説明中だったらしい。
K「まず2こひいて、次に10から1ひいて、のこった9こは一の位に(移)します」
とかなんとか説明して、タイルを動かす。
その間、先客は別の教室に行かれて、保護者としては自分一人に。

あと数人説明して、計算問題タイムに突入。
思い思いに子ども達、ドリルを解く。
担任「なんだか、授業研みたいですね」
授業中に話しかけられて、思わずびっくり。
他の保護者がいないとは言え、大胆な方だ。

自分「バインダー持ってくればよかったかな?」
担任「ところで、子ども達、タイルを使って引いて引いて法の説明はできても、計算問題では指で数え引きするんです」
自分「…ああ、その方が子どもの思考に沿ってて、安心なんですよ」
担任「いいのでしょうか?」
自分「そこにこだわるとしたら、さくらんぼの徹底ですが…」
担任「でもあれ、難しいですよね」
自分「余計混乱する子もいますね。10が遠いし。だから、答えが合ってるなら、(指で)いいんじゃないですか?」
担任「そうですか」

「指はダメですよね」とか言われなくてホッとした。


(2)【国語】イメージなき構造分析は空疎である【説明文】

次の時間は国語。
担任の先生はどうやら国語が専門のようだ。
私物と思われるビデオカメラも回している。
光村の説明文、「じどうしゃくらべ」

まず、問いを確認する。
問1.「じどうしゃたちはどんなしごとをするのでしょう」
問2.「そのために、どんなつくりになっているのでしょう」
スムーズに出てくる。
よしよし。

次にバスと乗用車のカラーの挿絵をペアで1枚ずつ配って、特徴を書きこませる。
なかなか面白いアプローチだ。
ただ、白黒の方がいいんじゃないかな、と思っていた。
窓なら窓、座席なら座席を赤鉛筆で囲むと分かりやすいんじゃないかと思ったからだ。

そこは、担任としては『あえて』らしい。
いろんな特徴を出させておいて、問2に関係するものに注目させたかったようだ。
子ども達、
「フロントガラスが一番大きい」
「コーヒーが映っている」
「紫色をしている」
等々、思い思いに特徴を出す。

担任「『バスは紫色をしています』と教科書に書きこんでいいかな?」
子ども「バスはどれも紫色ってわけじゃないよ」
担任「じゃあ、『バスや乗用車はいろいろな色をしています』だったらいい?」
子ども「うーん…」

(意見が分かれる)

子ども「自動車比べだから色比べになっちゃだめ」
子ども「色は仕事と関係ないよ」

あら…?
「じどうしゃくらべ」で色を比べちゃだめという理屈はないなぁ。
仕事と関係ある色もあるし。
これ多分、子ども達、問1のことしか頭にない。
というか、問2の『つくり』とは何か、分かってない。

実は3年でもつまづくポイント。
こまの『つくり』と言えば、「胴」と「心棒」。
理科の昆虫の『つくり』と言えば、「頭」「胸」「腹」。
植物の『つくり』と言えば、「根」「くき」「葉」。
『つくり』とは、簡単に言えば『部分の組み合わせ』のこと。
今回は無生物なので、『部品の組み合わせ』だ。
窓であり、座席であり、タイヤであり、荷台であり、足である。


担任「実はねぇ、工事の車は黄色、火事の車は赤なの…」
子ども「あっ、それじゃあ色も書いてもいいね!」
子ども「えっ、でも…」
うやむや気味に授業が終わる。

あらららら…???
大きな「構造」を分析させようとしたのに、小さな「単語」で躓いた…ような気がする。
最初に問いがあり、次にその答えを逐一具体的に拾っていき、最後にまとめる。
いわゆる「はじめ・中・おわり」(序論、本論、結論)。
その「構造」を意識するあまり、分からない言葉のイメージ化をし損なったのではないか。

国語の人たちは言う。
曰く、『説明文のキモは「構造」である』
曰く、『何の説明かはどうでもよい。何についての説明であろうと、構造を理解できればよい』
曰く、『構造を分析することで、具体例がどこに書かれ、まとめがどこに書かれているか分かる』
曰く、『それが他の説明文の読みや自分の書きにつながっていく』

まあ、そうなのだろう。
だが、言葉に対する深い理解なくして、構造の外見を分析できたとて、何になろう。
まして、問いの意味理解である。
説明文の入り口で渋滞したようなものだ。
また、「『つくり』とはつくられたようす、つくりぐあいのことですよー」と辞書的な説明をしても、ぼんやりしている。
やっぱり、『部品』を意識させなきゃ始まらない。

断っておくが、この担任の先生は優秀である。
こんな優秀な先生でも、言葉のイメージ化に失敗すると泥沼にハマるのか…と驚いた。
学びの共同体では「『分からない』と言える雰囲気づくり」「『分からない』からスタートさせよ」という考え方もあるのだが、子ども達がなまじ『つくる』という言葉を知っているだけに『つくり』という言葉をスルーしてしまったのかもしれない。
また、担任にも「ペア・グループで話し合えば何とかなる」という思いがあった気がする。
子どもに見通しを与えるためにも、教えるべきは教えなきゃダメな気がする。

『部品』を意識できれば、

「人を運ぶために、たくさん座席がついています」
「コーヒーを置く場所があります」
「ほかの車と見分けられるように、(車体は)いろいろな色をしています」

のような作文を思いついたかもしれない。
とはいえ、結果論。
先生を批判しようとは思わない。


(3)【歌と音読】低学年の学習発表会【王道】

最後に体育館で、1・2年生の学習発表会があった。
まずは1年生。

ひな壇に登って、「くじらぐも」の歌を歌い、音読をする。
ジャンプシーンでは子ども達、手をつないでいた。
クラスごとにまとまって大きな声で発表。
そして、最後に歌を2曲歌って終了。

見事なものだ。
プロジェクターだとか、小道具や動きは基本使わず、歌と音読で勝負。
それはそれで一つの方法(校長先生の好み?)。

でも、一観客としては、もう少し視覚的な支援があってもよかった気がする。
保護者は音読を聞いているが、小さい子や祖父母、地域の方は、

「くじらぐもって何だぁ?」
「どんな大きさで、何頭いるんだ?」
「空の旅ってどんな感じなんだろう?」

ってな具合になったんじゃないだろうか。

次の2年生のスイミーもほぼ同様。
歌はさすが2年生、うまかった。
「来年、君たちがするんだよ」
と、先生に見通しを持たせてもらったのもよかった。


全体を通して分かったことは、子ども達がよく訓練されているということ。
いろいろ批判的なことも言ったが、学びの共同体の型がうまく機能している。
担任の先生も落ち着いていて、意欲的である。

「一人もひとりにしませんよ」
「ペア・グループでしっかり話し合えていますよ」
それは素敵。
でも、自分はもう一つつけたしたい。
それは多様性。

全クラス判で押したようにコの字型。
詰め具合も同じ。
授業者は基本椅子に座る…
確かに不公平感はない。
でも、どのクラスも多様な個性を持つ集団の実態を踏まえて、それがベストと考えた上でのことなのだろうか。

学びも同様。
自分は多様性がなければ活性化しないと思う人間なので、子どもの想像力をもっと引き出したい。
算数では、いろんなやり方で思考の幅を広めたい。
国語でも、子ども達のそれぞれの多様な気づきを価値づけしたい。
そう思った。

おおいに刺激を受けた、よい授業参観だった。
先生方、ありがとうございました。


(余談)
関係ないけど、学びの共同体の授業、参観には向かなくね?
授業者や子どもたちの声が小さすぎて、全然聞こえない。
で、近づくと子ども達がこちらを意識してしまうので邪魔になる。
教師集団だったら、近づいても意識しないのだろうが。

うーん。
保護者は物足りなく思わないのだろうか?
落ち着いて学習してるからよし、なのだろうか。

子どもは一人ひとり違う? ~さくらんぼ計算編~

sakuranbo.jpg
(毎日保護者に3か所コメントを書かせる姿に傲慢さを感じるのは自分だけ?)

さくらんぼ計算…というと、どんぐり関係者は眉を顰める。
自分も事前に情報としては持っていたので、いい印象はない。
こちらの「2」をご参照あれ。

>繰り下がりに関してはクラスの全員が減減法が理解できなかったもよう。
>原因はさくらんぼ計算で最初から減加法を徹底させてしまったために、ほかの方法があることに考えつかない。
>もうひとつ。さくらんぼ計算を大量にやったあとに、次女は「10-7」が出来ないとぐずった。
>つまり、10がさくらんぼにできない、さくらんぼができないとどうやって引き算したらいいのかわからない



さて、ここまでが自分の予備知識。
Kについても、なるべくあわてず焦らずのんびりとやらせてどうにか鉄球地獄(※さくらんぼ計算のこと)をやり過ごさねばと思っていた。

だって。
Kはもともと、普通に繰り上がりのたし算は(時間さえかければ)できていた。
(計算カードをやらされていたからな!)
そこにさくらんぼ計算を教わったときは、混乱し、「分からない」と言っていたようだ。
仕方なく、奥さんが10を作って残りを足す、という手順を教えたらしい。

その話を聞いて、「ああ、よく聞く話だな」と思った。
面倒だからこういう工夫をする人もいるという話だ。

Kも「何でわかっていることをこんなに何回もやるのか」とか思ってんだろうな。
お疲れさまだ。
「なるべくのんびりやらせるために、何てアドバイスしたもんかなぁ」
と思っていた。

奥さん「でもさくらんぼ計算やりだしてから、数え間違いが減ったのよね」


………
……………へっ?

てっきり奥さんも「変なやり方を徹底して書かせるのねぇ」と言うと思っていたので、意外だった。

「…ミス、減ったの?」
「うん」
「面倒くさいと思う?」
「思わん。楽勝。もう、歌うたいながらやってる。ふんふんふ~ん、と」

どうやら間違いないらしい。
これはどう受け止めればよいのか。

仮説1.Kが面倒なことを面倒と思わない性格。
仮説2.まだ繰り上がりだけなので、鉄球地獄の本領が発揮されていない。
仮説3.実はさくらんぼ計算は一度理解してしまえば効果的な方法。

他にもあるかもしれない。
まぁ、一番ありうると思ってるのが1.

最近のどんぐりがこちら。

h_p.jpg


一番下に苦労して720を描く(さすがに10を1つの〇で表しているが)。
2文目で「男女の列」ということを知り、真ん中に書き直す。
しかも、数え間違いが嫌で、数字を書き込んでいる。
そこまでやっておきながら、右上に100の〇を7こと10の〇を2こを描く。
で、緑と青とで塗り分けていく。
100を二等分できるんかい、と思っていたが、問題なく50ずつ分ける。

まー、面倒なことやってるわ。
こういう性格だから、さくらんぼの鉄球地獄も(今のところ)うまくかわし、逆にミス防止に役立ているのだろう。
いいとこどりだ。

でも、「さくらんぼができない><」と言って泣かれても困るので、「使えないときもあるぞ」と伝えておく。
「さくらんぼが使えないときもあるぞ。1+1とかな」
「じゃあ2+2は?」
「使えない」
「3+3は?」
「んー。10じゃないけど、5にまとめる人はいるかもしれん。3のうち2をあげて5を作って、のこった1を足して6」
「それもさくらんぼ?」
「10のさくらんぼじゃなくて5のさくらんぼだな。だから「さくらん5」としよう」
「じゃあ、15+8は?」
「これも10のさくらんぼじゃなくて、20のさくらんぼだな。「さくらん20」だ」
「どうすんの?」
「8のうち5を15にあげたらいくつ?」
「20」
「8のうち、5をあげちゃったらのこりは?」
「3」
「20と3で?」
「23」
これ、小2の範囲だな。

こういう話を車内でできるくらいまで育っているので、鉄球地獄も(今のところ)平気なのかも。
普遍的な話とも思えないが、こういう例もあるということで。
自分の思い描いた「どんぐりっ子」像とは違うが、これもまあ、いいんじゃないか、と。


(余談)
「これ、自慢じゃないか」と思われたアナタ。
はっきり言ってKが「まぁ優れてるかな」という点よりMの「赤ちゃんぶり」の負担の方が圧倒的ですからね?
しかもK、どんぐりっ子のくせに、穏やかじゃないですからね?
(外面はいいらしいが)

折紙や切り紙や工作を黙ってやっててくれるときはいいけど、「知的好奇心を満たさせろー」とばかりに大人同士の会話に割り込んでくるし、「退屈を何とかしろー。外つれてって運動量確保しろー」とうるさいからね。
Mにも厳しいし、どんぐり問題の忍耐力はあるくせに日常生活ではすぐ怒るし。
うちの子育て、うまくいってません!

会社でも、一番どんぐり問題ができて賢い子はゲームが好きで、性格は少し…なので、あんまり「どんぐり問題がよくできる子のイメージ」を鵜呑みにしない方がいいかもしれない。

これまでの子育てで諦めてきたもの

1.酒・飲み会(飲んでから寝るまでの家事・子どもの世話がつらい。子ども放置できない)

2.旅行(もっと行けるもんだと思ってた。金も時間も体力も足りない)

3.ドラマ(『相棒』とか。教育上よくないのが多いので)

4.映画(映画館ゼロ。まとまった時間がとれない)

5.J-POP(車の中すら聞いてない)

6.スポーツとスポーツ観戦(24hリレーマラソン…オリンピックもW杯も、まとまった時間がとれない)

7.お笑い番組(好きだったのに…)

8.読書(本当はもっと読みたい。仕事関係とか推理物とか歴史物とか)

9.友達付き合い(離れちゃったし、会えなくなったし…FBあるし)

10.ネット(動画サイト、ニュースサイト、wikipedea巡り…まあいらないが)

まあ、これが現実だよね。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
雑務も厄介ごとも面倒ごとも、喜びをもって臨みましょう。

近況報告

1.最近気づいたこと。
別にお風呂のフタは蛇腹の大きなタイプでなくてもいいんだ、ということ。
銀マットみたいなアルミタイプを買ってきた。

で、要らなくなった蛇腹タイプは…切り刻む!

s.jpg

うーむ、この角材感。
これをさらに、ごみ袋に入れるべく、折る、折る、折る!
カビには弱いくせに、結構頑丈で、まさしく骨が折れる作業だった。


2.Kがくぎ打ちにはまる。

百均はすごい。金槌とくぎ抜き兼用で108円だ。

kugi.jpg

バルサ材はボンドでやっていたからか、今回はすべてくぎでつけようとする。
ボンドが便利なのに、あえて不便な方法にこだわるとは…
もちろん、

「いってー!」

と叫びながら作っています。


3.Mが「抜け毛」「抜け毛」と話し出す。

ehon.jpg

えっ(ドキッ)。
自分はそこまで抜け毛を気にしていないが…
いったい誰だ、そんなワードを教えたやつは。

こいつだった。

ほうほう、近頃のEテレはこういうのが…
確かに「抜け毛」と聞こえるな。
聞こえた音をシャドウイングするのもまた、一つの成長…

って、もうちょい役に立つ言葉を覚えてくれー!