学び合いの先生にどんぐり風授業をぶつけてみた

先日、教育アドバイザー(兼、学びの共同体スーパーバイザー)の方に授業を見ていただく機会に恵まれた。

多忙であり、目が離せない子がおり、考え方が違うと思われたので乗り気はしなかった。
が、野次馬根性というか、「どんな反応をされるかな」と興味が湧いたので、あえて「自力解決」にこだわった授業にした。

3年「かけ算のひっ算」。
これまで、20円のあめを3個買ったり、200円のパンを3こ買ったりしてきたが、すべて絵を描かせてきた。
その際、以下のように言って数値的な情報はすべて盛り込むようにさせてきた。

「どのあめがどの値段なのかわかんない」
「うちの国には『20円玉』なんてものはないよ」

(前者は実はさほど重要ではないが、人に分かりやすい絵図になる。
後者はすごく重要。どんぐり問題では数値をそのまま写すのではなく、一度絵図化しておいた方がいい。
↓はKの最近の作品の一部だが、「2秒で1歩3mm」を表している、秒が△、歩が楕円、3mmが□だ。
数値を数値とだけ考えてると、視覚イメージを使い損ねてしまう)

K3330336.jpg

さて、そうやって鍛えておいて本時。
23円の色画用紙を3枚買う問題。
「これまで、あめやパンを買ってきましたが…」
「今回は何の食べ物?」
「残念。食べ物じゃないんだ」
「えーっ!」
などと言いつつ、出題。

絵・横式・単位つきの答え。
どの子も自分なりにバリバリ描く。
隣の子も心配しつつ、バババッと手が挙がる。
自分は黒板を7等分くらいして、児童の名前を書いていく。
ずかずか黒板へやってきて、どんどん描く子どもたち。
(あんまりノートは持ってこない)

指名されなかった児童は、7人の板書を見る。
背中で見えないながらも見る。

「〇〇の式、分からない」
「〇〇さん、分からんって言われてるぞ」
「んー。じゃあ書き直す」
「△△の0、小さすぎでしょ」
「一番後ろの人、見えないよ」

なんてやりとりをしつつ、黒板に7つの作品が完成。
ちなみに式は「23×3」以外にも「23+23+23」「20×3 3×3」「20+20+20 3+3+3」などまちまち。
式は「お好み」だから、自分は優劣をつけない。
かけ算になれた子はすっきりした式を書く。
美意識だ。

でも、階段みたいなもんで、上と下では違う景色が見えるのだろう。
それぞれが「こんな景色が見えました」と伝えることには意義があると思う。
が。
「あの上の子の景色が一番よい景色です。みんなで再現しましょう」
とは思わない。
ハ・カ・セ(早く・簡単に・正確に)も言わない。
なぜなら、下の子たちの景色も、決して劣っているわけではないから。
(それに厳密には階段のように明確な序列があるわけではない)

それぞれ解説していく子たち。
それぞれのよさを認めつつ、〇をつけていく自分。
「今日は〇〇さんや□□さんの考えを使った筆算のやり方を教えます」
で、教える。

「それではもう一問やって終わりにしましょう」
24個のクッキーの箱が2はこで、クッキーはいくつですか。
ここでも絵を描かせる。
なぜか。
絵は絵で答えが出るので安心。
また、筆算で出した答えと照らし合わせられる。
ちと枚数が多くて大変だったが。

第一問で当たった子も挙手してくる。
「俺に書かせろ」という圧がすごいわ(苦笑)
「ほかの子にもチャンスを」ということで別の子を当てる。
当てられなかった子、仕方なしに板書に注目する。

さて、事後研。
「自力解決にこだわるな。もっとペア・グループで聴き合わせろ」と言われるかな、と思っていた。
が。
「書く力が育ってますね。ああやって一斉に書き始めたり、前に出てどんどん描こうとする雰囲気って、そうそうあるもんじゃない」
といきなり褒められる。
「教えるべきは教える。それでいい。一定のやり方をなぞるだけが学び合いじゃないよ」
あら。
「別に『今からペアで話しなさい』と、言わなくてもいいの」
なんか、意外でした。
「学びの足跡は、教室掲示に表れていたしね」

「ただ、今誰に注目すべきか、という自覚はもっと欲しいかな」
これは確かに。
自分のやり方だと、完成までの時間差が当然出る。
だから、自分の絵図を完成させたい子のテンポと授業のテンポが合わないことがある。
反省点。

「板書もまた、学びの足跡なので、消してしまうのはどうかな」
これは自分も同感。
でも現実、スペースがない。
自分のやり方だと、黒板を子どもに開放してるので、どうしても足りなくなってしまう。
子どもたちの背が高ければ、上の部分も使えるが。
大きなホワイトボードを使うとか?
ううむ。課題。

まあ、いろいろあったが、学びの共同体の先生でも絵図を用いた自力解決の取り組みは認めてもらえた。
この路線で行こう。
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なんで勉強なんてしなくちゃいけないの!

長文です。
新学習指導要領の説明会に行ってきた。

>最近の動向から。
>国際的な調査では学力上がってますよー。
>ただ一部、「楽しくない」「学んでも意味ない」という声もあるから、
>楽しませつつ、実生活とのつながりを意識させてね。
>そうすればどの子もやる気出るはず!

まず、「実生活とつながってるで。どや、やる気出たやろ?」というのが疑問。
意欲的な子は、何にでも面白がる。
たとえ、実生活で全く使えない雑学であっても。

逆に、意欲的でない子は1.5秒で嫌がる。
どんなに実生活で必要な知識・技能でも(漢字の読み方とかね)。
ハナからやる気がないわけで、理由なんか後づけが多い。

要は「学習内容が楽しくない」「実生活とつながってないから学んでも意味がない」という言葉を生真面目に受け取りすぎだと思う。
やる気のない子は、なんだかんだと理由をつけて、結局学ぼうとしない。
「実社会で使ってる人もいるのだろうが、俺は使わん(と思う)」とかね。
(言う程、明確なキャリアプランがその子にあるわけでもなかろうが)

「(学習内容が)楽しくない」じゃなくて、「(学習自体が)楽しくない」かも。
「(実生活とのつながりが見えなくて)意味がない」も単に「めんどいから意味がないことにしたい」のかも。
現場ではそんな印象を受ける。

それを、大真面目に現場で、
「お前たちは実生活において、知識・技能の恩恵を受けておるのだ。面白がれ!」
とやっても逆にうまくいかないのではないか。

理想の子どもたち「実社会で使われてる! 学ぼう!」
現実の子どもたち「役立たないかもしれんが、まあ学ぶか」

じゃあなぜ「まあ学ぶ」のかという話になるが…

>「何のために学ぶのか」という学習の意義を共有しながら、授業・教材の改善を…

アクティブラーニングのところでさらっと書いてあった。
個人的にこの文言も、引っかかった。
なぜか。

一つは、お上が「何のために学ぶのか」をどう定義しているか分からなかったからである。
(自分の不勉強かもしれないので、きちっと定義されていたとしたら誰か教えてください)
定義不十分のまま、「共有」なんてできんのか?

二つには、「学習の意義」がまるで一つに決まっているような印象を受けたからである。
学ぶ理由なんて人それぞれ、多様じゃないの?

まあ、多分これだろうな、というのが…


5.よりよい社会とよりよい人生を形成するため。

お上は言う。
さらっと「社会」と「個人の人生」を並列する。

それを全否定するつもりはなく、むしろ深いところでつながってると思う。
だが、表面的には「よりよい社会」と「よりよい人生」は矛盾することが多い。

例えば、自分が根を詰めて残業上等で研修して仕事に活用したとする。
当然ワークライフバランスは崩れ、家族のことはほったらかしになる。
(逆に介護やら手術やらで家族にかかりきりになると、どうしても仕事が不十分になる)

子どもの場合はどうか。
「学力をクラスのみんなのために使ったら、よりよい人生になる」か。
もちろん、そういう場合もあるだろう。

しかし、
「本来したかったことが時間的にできなくなった」
「浮いてしまった。疲れてしまった」
「よかれと思ったのに批判された」
「いい子ぶってると睨まれた」
ということもありうる。

アドラーも「貢献こそが幸福」と言う。
「一部の不評を気にせず、よかれと思うことをしろ」と。
自分も基本的には同意する。
だが、それは上記のようなマイナス面を十分考慮した上で言うべきなのだ。
若い先生が真に受けて、
「役立てよ。それが自分を磨くことになるんだから当然だろ」
という態度で子どもに接すると衝突は必至だ。

だから5位。

「貧乏くじ引かされてたまるか」
「自分の都合を言うと批判されるので嫌だ」
「そうそう汚れ役をやってられない」
「めんどいからヤだ」
「は? なんで俺が社会のために働かなきゃあかんねん」

という負の感情に十分に寄り添った上で、

「でも、ルールやマナー、公共性って必要でしょ?」
「つらいよな。それでも社会の役に立て」
「時には自分以外のために尽くしてくれ」
「自己犠牲って素敵やん?」

と言うのは、もちろん必要。
ただ、寄り添い不十分で自明の論理と思いこむと、子どもは納得しないのではないか。
だからこれをいきなり1位にバンと掲げるのは、言葉は悪いが自己犠牲を強いるブラック企業と同類になってしまう気がする。

子どもに理解されるまで時間がかかってしまう「学ぶ理由」だ。


4.災害時等、一切のツールが使用不能になっても適切に生きるため。

学校はいつまで経っても、ノートや黒板やほうきがなくならない。
自分はそれでよいと思う。
敗戦後の日本じゃないけれど。
ツールなしでもやれるだけやるのが、学力であり、生きる力です。

もちろん、ツールがあった方がダイナミックに動けるのだろうが、
「スマホがないから何もできません」
「ネットがつながらなければ何も分かりません」
「電気がないからこのまま座して死を待ちます」
なんてのは魅力的とは言えません。

消極的な理由だが、まさかのときの学力が真の学力。
衣食足りない中で、どれだけ礼節や冷静さを持って行動できるか。
「よりよい社会」というより「少しでもましな社会」に向けて行動できるか。

「否応なく社会のために働く」か、「自分の欲望のまま生きる」か。
そこに、人間の真の価値があるような気がするんだよね。


3.知的にトラブルを回避するため。

詐欺のようなだまし。
伝えるのが下手なばかりに、人との間で起こる不要ないさかい、誤解。
逆に相手の意図を読み取れずに、周囲に与えてしまう迷惑。
必要な情報を探し出すのに、時間をかけすぎてしまうこと。
非効率なやり方に気づかず、手間と苦労をかけ続けること。
同じミスを繰り返すこと。
締め切り意識の欠如。
優先順位のつけ間違い。
理不尽な被害に対する対抗手段を知らないこと。
どんぶり勘定。

何でもないことのようだが、このようなことが人生を浪費させる。
もちろん、効率原理主義でもいけないが。
ムダはムダ。
損は損。
学力(というか、頭を使うこと)をナメてると、あらゆることで頭を打つ。

思わぬトラブルで、どうかつまづかないように。
学校の勉強が唯一絶対ではないが、社会に出るまでのシミュレーションにはなる。
始終イライラする人生を送りたくなければ、トラブル回避術を学びとれ。


2.未来を選び取るため。

優しく言えば、夢をかなえるため。
要は、生き方を選択するため。

スポーツ選手でも、芸能人でも、Youtuberでも、
学歴や資格が邪魔になる、ということはまずない。

自分のキャリアプランを実現させるには、選択肢は多い方がいい。
義務教育時代の学習は基本情報や思考訓練なので、原則、未来を邪魔しない。
(過度に時間をかけすぎたり、徹底反復やコピー学習ばかりではよくないだろうが)

また、変に知識・技能をつけたせいで野性味とか天然とか、人間的魅力が薄れた、というのはあるかもしれないが。
知識・技能を身につけても、面白い人は面白いと思うのだがどうだろうか。

あるいは,中途半端に学力つけたせいで人を見下すようになった、とか。
でもそういう子は、学力がなくても人を見下すよね。

まとめよう。
「関係なさそうな勉強もいったん理解した上で、進むべき道を選べ!」


1.探求的に楽しむため。

なんだ、結局ここに戻るのか。
はい、そうです。
難しいよねー。

「昆虫キモい」
としか思ってない子に、
「里山ってさ、人が手入れすることで生き物と仲良く住めるんだぜ。すごいと思わない?」
と伝えても、なかなか伝わらない。

そしてまた、「キモーい!」って叫ぶ子の声が大きいんだ。
悪口だから便乗して「キモーい!」「キモーい!」の合唱をストップさせてから
「えー、昆虫の体は…」
と話すしんどさ。

あるいは偏食の激しい子。
「これ、キラーイ!」
「俺もー!」
「絶対減らすー!」
「えっ? じゃあ私も…」

やめろー!
なんでわざわざ大声で、聞こえるように言うんじゃ。
「別に普通だよ」って思ってる子も「え? 食べない方がいいのかな」って思っちゃうだろ。
好き嫌いするのが後ろめたいから、同意が欲しいのかな?

体罰をはじめ、「無理やり勉強させる」「無理やり食わす」ということができない今、
子どもたちはうっすらこう感じている。
「俺たちは選ぶ側の人間だ。消費者だ」
と。

「虐待事例があるから、親に感謝などしなくていい」
「体罰事例があるから、俺は暴力ふるっても許される」
「いじめ事例があるから、学校なんて軽視・軽蔑していい」
「障害者差別事例があるから、できないことはさぼってもいい」
「体育の事故事例があるから、体育の授業は参加しなくてもいい」
「不審者事例があるから、初対面の大人に失礼な態度をとってもいい」
「食物アレルギー事例があるから、自分で食べると決めた量をいつでも撤回していい」

いや、事例は確かにあるんだけど、それ君の話か?
社会全体で、
「嫌なことはしなくてもいいんだよ」
というメッセージを出してるよね。
(「危険だから一人で遊ばせない」「騒音出せない」とか、不自由な面もあるけども)

そんな時代に学校は憎まれ役を演じるしかない。
公園でろくにボール遊びをしてない子たちに球技を教えろ。
でも、安全面は配慮しろ。

そりゃやっぱり「打つと楽しい」とか「捕れるとうれしい」とか。
「あいつ、かっこいい」とか「もっとうまくなりたい」とかでしょう。
それを全く感じない子にとっちゃ、そりゃ拷問でしょうね。
「早く終われ。家帰ってゲームしたい」
でしょうね。

人それぞれ、感受性という名のアンテナがある。
それで何かをキャッチしたときは、ある程度自由に探求できないとアンテナは頭皮に埋没してしまう。
今までキャッチしていた知的好奇心刺激も、感じなくなる。
逆に探求を面白がると、シカの角のように、どんどんアンテナは伸びる。
そんなもんだと思う。

探求とは、具体的に言えば、質問・思考・調査・収集・フィールドワーク・実験・分析・サマリ作成・レポート発表などなど…
実はこの文章も、自分の「探求」の一つだと思っている。
こう見えても多忙なのだが、こういう思考の足跡は何としても記録しないと気が済まない。
別にお金がもらえるわけではないが、文を書くのが好きだし、レスポンスがもらえるのもうれしい。

てなわけで、永遠に伝わらないかもしれない一言。

「何かを探求するってさ、本当は楽しいもんなんだぜ」


(余談1)
お上は実学重視というか「実生活で役立ってこそ学力」と思っているのだなぁ、と感じた。
国家だから当然か。
例えばうちのKは恐竜が大好きだが、実生活で役立つことは、まあ、あるまい。

逆説的だが、国として「社会に役立たない雑学など無用だ」と進めれば進めるほど、
「(雑学でも)探求するって楽しい!」ってところから離れてしまうのかもしれない。


(余談2)

怠学児童との想定問答集。

「社会の役に立とうって考えたことある?」
「ないし」
「災害のときとか、自分だって困るじゃん」
「どうせ起こらんし」
「そうかなあ。じゃあ、夢とかある?」
「ないし」
「でも、トラブルとかめんどくさいぜ。だまされたり、仕事うまくいかなかったり」
「別にいいし」
「そっかあ。じゃあ〇〇(その子の夢)でもいいんだけど、『これ調べたいな』って思ったことない?」
「ない」

終~了~。
…でもいいんだ。
心のどこかに残ってくれれば。
しつこく言い続けるぞ!

おさんぽしてきた

http://manabiyaroots.blog.fc2.com/blog-entry-77.html#cm
もやもやしていたので、建設的に話し合えてすっきりできた。
同じもやもやを抱えていた方がいれば、とまとめておきます。


まず、核心。
「どう変えたいの」を直球できいてきた。
「変えたいわけでは…」と遠慮されたが、そこもグイグイきいた。
要は、「今のどんぐり、楽しむこと忘れてな~い?」ってこと。

自分もKについては生活の一部みたいになってるので、「そういや楽しんでるかどうかって目で見てないなぁ」と気づかされた。
(まあ、雑ながらも楽しんでる、と思う)

「楽しもう」とする視点では、ちゃこさんのノウハウは大いに参考になると思う。
異論反論、反感や反発を持ったとしても。



次。
「コアは認める。他は枝葉だと思うが、枝葉にしてもこれ、まずいんじゃないの」
とお伝えすると、結構すんなりご理解いただけた。

「あれよりこれがいい」と比較・誘導してるように見える、ということ。
それと「情報を遮断せよと言いつつ、新情報を追加する矛盾」。
あと、「いっしょくたに否定しないで」ということについても。

書き方次第で、もっと容易に受け入れられた意見だと思う。
自分の意見がどう思われるか、あまり気にされない方だと思うが、反感を持たれる書き方をされたのはあまりに惜しいと思った。

つか、自分が反感持ったからね(苦笑)
でも今は、認め合って先に進みたいと思っている。



最後。
これまで偉そうに書いてきたが、自分は夏休みになっても、Kにあんまり外遊びさせてやれてない。
ワークもさせている。
要は環境設定がなってない。
どんぐり的には劣等生だ。

理由がある。
MのABAトレーニングのためだ。
何とか地元小学校の支援学級に行かせたいのだ。
(ウチは、という話。特別支援学校を否定しているわけではない)

Kには申し訳ない、とは思う。
でも、多かれ少なかれ家庭によって事情があるので、工夫はしつつも、制限の中で楽しもうとするのもよいのではないか。
画面よりも子どもを見よう。
一緒にいられる時間は米粒ほどだとしても、ダイヤのように輝かせよう。

ちなみにこちら。
今年のKの自由工作「ペットボトルマシンガン」。

K3330309.jpg

K3330312.jpg

右手で針金をクルクル回すと、片面段ボールがカタカタ鳴ります。
Mが病院に訓練に行ってる間に何とか完成させました。
Mがいると、ペンチや針金、危なくて使えないのです。
環境設定、厳しいっす。


それでも…
うまくいかないことだらけでも…
イライラする必要はない。
先はまだ長いけど、口笛でも吹きながら、力を抜いてやっていきましょう。

いつか会える日のために

http://manabiyaroots.blog.fc2.com/blog-entry-72.html

まず最初に言っておくと、自分は流れがよくわかっていない。
だからこれから書くことは的外れかもしれないが、思考の足跡として残しておく。
Facebookでやって万一荒れたらアレなので、こそっと書く。


まず、ちゃこさんの考え。
「まったく、読んでいません」が「見下してるように思う」というのはよく分からない。
「読まない方が精神的安定が保てると思います」が「私にはお気軽にメッセージをください」というのもなんだかなぁ、と思う。

てなわけで、100%の賛成はできないが、どんぐりを続けていくにあたって一度は考えなきゃいけない話だと思った。

自分のどんぐり子育ても「うわ、〇〇ちゃん、すげぇ」から始まっている。
そこでKで試し始め、幸いにも軌道に乗るようになった。
要はあんまり困らなくなった。
(学校のこと等でこまめに連絡帳を書くけど)
そしたら、今は(申し訳ないが?)どんぐりブロガーさん達のブログをあまり見なくなった。

期せずして、ちゃこさんの考えの通りになった。
時間は限られている。
周りを気にしすぎてはいけない、というのはその通り。
しかし、うまくいかないから周りを見る、というのが真実。
それがプレッシャーや悪循環になる、というのもまた真実。

「うまくいってないから、相談しよう」もいいけど…いいんだけど、
「うまくいってないから、今は心を落ち着けよう」
「うまくいってないから、うまくいっている人を見ないでおこう」
「PC・スマホの画面より、子どもを見つめよう」
というのもありだと、決して逃避ではないと思う。

以前、似たようなこと書いたな。
「余裕のない親が、余裕をもって子育てをする」という矛盾。
それを解決するのは結局、子どもの成長しかないのだと思っている。

個人的には情報収集やお悩み相談は別にゼロにしないでいいと思う。
それでいて、「分かった。やるべきことをやって、果報を待とう」と心の平穏を保つのが、結果的に「健全」になるのではないか。

「心がけ次第 それは絶対にやってくるよ ひたすら 信じて待て」(B'z『Magic』)



次。
実は、自分は上記と別に、ちゃこさんに大いに共感するところがある。
どんぐり倶楽部でもアドラー心理学でもそうなのだが、

「それって話が通じてナンボですよね?」

と思うことがあるのだ。
自閉っ子のM。
ストレスだけは取り除くが、絵・言葉ともに殆ど成長がない。
とにかく遅い、成長が。
指示も会話もままならない。

いずれは年長問題と思ってはいるけれど、それ以前の生活力が足りな過ぎて、それどころじゃない。
10歳くらいにならんと年長問題できんのじゃないか。
だから、実は心情的には「どんぐり無理だわ」と思っている方の気持ちはようく分かるのである。

いや、やりたいのよ。
みんなと同じように。Kと同じように。
でも、できない現実の壁は高く、強固で、しかも険しい。
「やり方次第でそこそこ行ける」のは知ってるけど、それが通じない子もいるのよ。
環境設定は最重要課題ではあるけど、万能じゃない。
同様に親の関与も限界があるのよ~。
うまくいかないことはオール保護者のせいと言われるとやっぱりきつい。
何でもかんでも発達障害のせいにする気はないが、「障害状態にある」のは厳然たる事実。

まあ、「変えられないものを嘆くのは無意味」と思ってるので普段は言わんけど。
それに諦めてもいない。
待機しながらも挑戦。



最後。

政党でも宗教でもそうだが、「純化路線」と「大衆路線」に枝分かれするものなのだと思う。
「革命」起こそうとしてる人は「改良」がチマチマして見えるし、「改良」中の人には「革命」が机上の空論に思えてくるのだろう。
ただこの議論を見ていると、「よそから見たらちゃこさんも糸山先生も同じ」ではないだろうか。

自分も、目指す場所が一緒なら、いずれ合流しそうな流れだと思う。
テーゼがあって、アンチテーゼがあって、それを含めたジンテーゼが形成される。
その上で、どんぐりが(一過性のブームでなく)広まりますように、と祈らずにいられない。



余談。
ちゃこさんの言いたいことは何となく分かるのだが、「どう変えたいのか」はよく分からんのでちょいと質問してきます。

表現運動について(今年度の自分の反省)

 今年度は別の担任の方が表現を提案してくれた。
「おっ、今年は楽かな」と思ったらが甘かった…
「自分が主でやるより、大変だった」のはなぜか。
それを自分なりに書き残しておく。

(1)最重要は共通理解。
音源なり動きなりを早めに統一する。
youtubeの動画だとか書面だとか。
書面の場合、棒人間が手袋をはめた図になると思われる。
そこでは「グー」なのか「パー」なのか「(挙手の際の)ハイ」なのか明確にする。

ベテランの先生の「お手本はオレの頭の中」というのはとても困る。
子どもを見ながら(相手しながら)、前に立った先生のお手本を覚えるなんて無理。
マイクを持ってると「マイクもってるからあの手の形なのか、本来は違うのか」迷う。

また、お手本になる指導者側だって時に間違って当然。
左右逆とか。
そこで誰かに「書面(動画)と違うのでは」「さっき言ったことと違ってるよ」とツッコまれることが大切なのだが、どうにも意地を張る…というか、突っぱねる人が多い。
「そんな風にして(間違って)ないよ」「ここまでこれで教えてきたよ」等。

大人相手に「言った」「言わない」も嫌なのだが、子どもを混乱させるのはいかん。
だからいつでも参照可能にして、都度共通理解を持つのが大切だと思う。


(2)何を表現しているのか
「まずこの動きです。次にこの動きです。それからこの動きです」
そうやって機械的に教えても覚えきれるもんじゃない。
特にソーランは全身を使うので、複雑な動きが多い。

だから、意味づけが大事。
「波が自分に寄ってくる様子を右手で作ります」とか。
「重い網を勢いよく引き上げます」とか。

それを8拍子なら8拍子のリズムでしゃべりながら踊る。
「波を寄せます。なでおろします」とか。
「巻き上げ巻き上げ、左右ヤッ」とか。

自分は以前、ゆずの「OLA!」をしたときも、「ケンカしてるイメージ」とか「動きを揃えて仲良し」とかやっていた。

イメージを持たせないと、覚えられない。
隊形移動も同様で、「ウェーブするためにここで移動します」とか「タワーを目立たせるために円を作ります」とか。
何も考えず隊形移動をするんじゃなく、「移動してからあの動きするぞ」と思わせる。
行動に意味あり。


(3)シンプル・イズ・ベスト

「うちの〇年生は隊形移動を5つも取り入れました」
「こんな難しい動きをしました」

うーん。
それが見栄えや達成感につながるのかもしれないが。
難しいことやらない方がいいんじゃない?
負担じゃない?

特に表現に注力したがる学校は、体育以外の授業も犠牲にしてまでやろうとする。
そりゃ子どもは「レベルの高いことに挑戦したい?」ときけば「したい」と答えるが。

隊形移動はどうしても子どもが不安になるので、動きが小さくなる。
ソーランで言えば腰が高くなる。

難しいことをどんどんやるよりも、簡単な動きをきれいに揃える方が大切じゃないかな。
指先まで神経使って、一つ一つを丁寧にやろうよ。
そんで、見栄えのする動きを何度も使い回そうよ(こすり倒そうよ)。

隊形も複雑な隊形じゃなく、簡単な並び方をうまく使い回そうよ。
隣の人は変わらないとかさ。

加えて今年は雨に泣かされた。
運動場が使えないと、高度な隊形移動は難しい。
線を引くにしても、当日はいろんな線が混在してるからね。

以上、今年の反省でした。