感想なのか事実確認なのか(小2国語「ふきのとう」)

①はじめのかんそうをかきましょう。

A.ふきのとうについて

「はるかぜがあたらないころのふきのとうはかわいそうだった」
「ふきのとうがもっと大きくなってほしいとおもった」
「はるかぜがきて、ふきのとうが出てきてうれしそうだな、とおもった」
「(ふきのとうの)かおが出て、よかったね。雪をどけるのをがんばったね」
「さいごまでがんばっていたから、そとが見られたんだとおもいました」
「ふきのとうはふゆは雪の下にもぐっていても、はるになったら出てくるんだと分かった」

B.竹について

「竹やぶが「おどりたい。」って言ってたころは、(おどるには)さむそうだとおもった」
「(ふきのとうの)小さなこえがして、(竹のはっぱが)びっくりしそうだった」
「おどりたかった竹が、さいごにはおどれてよかった」

C.ぜんたいのふんいきについて

「さいしょはさぶそうだったけど、はるになってからあたたかくなった」
「みんなはさいしょざんねんだったけど、おひさまがはるかぜをおこしてからは、みんなうれしそう」
「さいごはあったかそうだった」

D.そのた

「みんなこまっているのにわらうなんて、たいようはしつれいだ」
「たいようのこえってとおくまでとどくのかなっておもいました」


まだ始まったばかりなので、一つ一つ教えていかなくてはならないが、本文の情報を抽出するだけの児童が少なくなかった。
本文の記述をコピーすることはよいとして、「自分の感想」をたし算できていない。
つまり、「作者の言ったこと」の域を出ず、「自分の考えたこと」がゼロだ、ということだ。

ただ、「そんなの読めばわかるよ。君の考えを書きたまえ!」と一蹴する問題でもない。
「竹はゆれたかったんだ」「はるかぜはねぼうしていた」「ふきのとうがかおをだした」という『コピペ』は「この場面が心に残りました」という内面の吐露であり、「どうして自分は心に残ったのか」というメタ認知につながる部分だと考えるからだ。
だから、「そこが心に残った理由を教えてほしい」と返した。

何にせよ、これから鍛えていかなくてはならない。
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未来を拓くのは絵図化と対話(と検証主義)

この春休み、自分の「課題図書」として考えていた本…
「AI vs. 教科書が読めない子どもたち(新井紀子/東洋経済新報社)」を立ち読みした。
「おわりに」のところに「ソフトランディング」という言葉が出てきて、自分と根本的な姿勢が似てるなぁ、と実感。

そうなんよ。
「何それ、極端。とても受け入れられないわ」で終わって欲しくないのよ。
「なんか変わり者がヘンなことやってんな」みたいな。

「一部の熱狂的なマニアがいるらしいぞ」とか、「細々と続くニッチな活動なんでしょ」とかじゃなくて。
(とは言っても、「どんぐり流絵図思考」が一気にブームになって一気に廃れるのも嫌だけど)

>ご期待に添えなくて申し訳ないのですが、今のところ、「こうすれば読解力は上がる」とか「このせいで読解力が下がる」と言えるような因子は発見されなかったのです。
こちらの記事より引用)

新井先生、そこで絵図化ですよ。
「テープ起こし」や「書き起こし」ならぬ「絵図起こし」をすれば読解力は上がる。
自分はそう確信しています。

言葉から絵図への、語句順訳ですよ。
低学年のうちからRST(著者のやってる読解テスト)のように、言葉から言葉へ変換する練習では「読めた」「読めない」は測れるけども、「読めるようになる」かどうかは偶然に委ねることになってしまう。

絵図は学習者と指導者の共通言語なのだ。
「先生、僕はここまで分かっているよ!」
「でも、この語句が分からなくて止まっているんだ」
というような声なき声を、顕著に表しているのが絵図なのである。
(逆に言えば、「ことば」は時として共通言語になりえていない、ということである)

読解とは読み解き、読んで理解すること。
理解するとは、視覚イメージ化すること。
やむを「えず」、ではなく、正確なイメージ化をするために意識的に絵図化する練習を積むべき、というのが自分の立場。
(どんぐりの目指すものはその先の思考力(分かろうとするための絵図)なのだが、今回のテーマが読解力なのでそこには触れない)

それを「時々気まぐれに絵図化する」というのでは宝の持ち腐れ。
余裕ぶっこいて、延々と誤読を続けることになる。
(残念なことに、思い込みで不正確な絵図になっていく子も、結構多い)

とは言え、そうそうスムーズに文章を絵図化させることは可能なのか。
難しいこともある。
ソフトランディングのためには「ギブ」「飽きた」「めんどっちい」をクリアしなきゃいけない。
そのためには保護者や先生や友達の存在がとっても大切。
年齢差無視して、ひっくるめて「仲間」と呼ぼう。

仲間との対話、仲間との信頼関係だ。
見て、思考に寄り添って、時に対話をしながら、しぶとく働きかけるしかない。
「おや、何か違ってない?」
「この絵じゃさ~、べつのことになるんじゃないの?」
「あれ? 〇〇って書いてあったんじゃ?」
どこまで「対話」をするか、どこから「自力」でやるか、ってのはかなり難しい問題だけど。

失敗しても大丈夫。
あなたのチャレンジはじっと見てる。
あなたの悔しさも受け止めるよ。支えるよ。
そういうメッセージをどうか、よろしくお願いします。
なかなか余裕ないけどね。

「別に怒ってなんかないよ ただオマエの諦めた顔が嫌いなだけ
下を向いてないで 次はガンバレよ
結果より気持ちだろ オレらに必要なのは」(ケツメイシ/仲間)

(以下余談…というか、リンクの旅)

1.この記事の下の方にある【問題2】の赤玉白玉の問題はやはり悪問だろう。1番を「白玉3個『だけ』だった」に変えんと。
RSTの目指すものを達成するには、こういう脇の甘さはイカン。

2.こちらの方の実感も自分に近い。

>読解力を育むのに一番効果的な方法が、「楽しんで本を読む」ということであるのは間違いありません。楽しくない読書を強制しても意味はありません。

後半は同意だが、前半はどんぐりとはちょっと違う考え方。
外遊び等の実体験の裏打ちはやっぱり必要、というのがどんぐらーの立場。

>とはいえ、本を読むことに意欲を持てなかった子に、今更大量の本を読ませることも出来ません。じゃあどうするか。
>私は塾講師時代、そういう子相手にはもっぱら「とにかく問題文の内容を絵に描く練習をさせる」ということをやっていました。「図にする」ではなく「絵に描く」です。図示という程ちゃんと整理が出来る子は稀でした。
>色々試したんですが、これが一番効果的、というか効果が出るケースが多かったのです。よくある指導方針なのかは分かりません。あんまり横のつながりがない職場だったので。

窮すれば絵図思考、なのでしょう。やっぱり。
自分がもどかしいのは、公教育の学校では人数が多すぎて十分なケアができず、少人数塾や家庭教師の方ができてしまう、という点。
競争社会で成果主義の民間企業なのに、「そっちの方が余裕のある教育できてるやんけ」みたいな。
ソフト面で公的インフラの一部を担っていると自覚している者としては悔しい。
ああ、悔しい。

>「問題は解かなくていいから、とにかく問題文に書いてあることを絵に描いてみて」ということを、ただひたすら反復する。これを、算数だろうが国語だろうが社会だろうが理科だろうが関係なくやっていました。算数であれば「問題文の内容を図にする」というのはごくごく一般的ですが、それが国語でも社会でも理科でも、とにかく「問題文を絵で描く」ということにだけ集中してもらうのです。で、問題文をちゃんと表現出来ているところは褒めてあげる。出来ていないところは指摘してあげる。

「解かなくていいから」というのが明快にして痛快です。

>なんで「絵を描かせていた」かというと、私の中に「読解力は絵本の読み聞かせを起点に育つ」という認識があったからなんですね。文章と絵を同時に摂取することで、だんだん「文章→イメージ→文脈理解」という回路が出来る。あと、全然文章になじめない子でも、絵なら結構素直に描いてくれたから、という事情もあります。

まあ同意。実体験があればさらに強く同意。 

>これも多分パターン学習の一種なんだと思いますが、繰り返すうちに少しずつ問題文が理解できるようになって、成績が上向いていった子も結構いました。

そのエビデンスがあれば文句なし、でした。
だから今年度、自分はエビデンス残しを頑張ります。

3.こちらの方も絵図思考をされていたのだろう、多分。

>そういえば,子どものころは試験に出てくる問題にわざと誤読させるようなものも多かったので,余白に(絵心はないので)図を描いて問題を理解するように努めていた。 これも一種の受験テクニックである。

とあるので。

>「キーワードとパターンで解いている子、読んでいる子が意外にいる」ことに驚いているということが私には驚きだ。 そんなの当たり前じゃないか。

そだねー。
…いや、こんな風に考えられてしまうのは悲しいし悔しい。
もっとがんばるぞー! ナメられないように見返してやる!

>これは結城浩さんの「数学ガール」シリーズを読むようになって納得できたことだが, 正しい理解には対話が不可欠 だと思う。 なぜなら「理解はプロセス」だからだ。

面白い意見。その本も未読なので、読んでみないといかんな。

>このやり方のポイントは絵を起点として対話が発生していることだと思う。 絵を文章にリンクさせるには何らかのトリガーが必要で,そのトリガーが「対話」なのである。 たとえば「読み聞かせ」ではなく子どもがひとりで絵本を読んでいるだけで理解が進むのか? ということだ。
>「キーワードとパターンで解く」だけでは理解を放棄しているのと同じで,それを率先してやっているのが日本の学校なのである。 その呪縛から抜け出せるかどうかは(学校の外側の)環境に大きく依存する。 それなら富裕層が有利で貧困層が相対的に不利になってしまうのは当たり前とも言える。

糸山先生の別アカウントの文章か、と一瞬思ってしまった。
ただ、「言葉のトリガー理論」じゃなくて、「対話のトリガー理論」だな。

対話なき学習は、軌道修正がない。
時に独善やとんでもない勘違いに走ってしまう。
だから対話や会話が必要。

自己学習力のある子どもに育てたかったら、
「話をきちんと聞いてやれ」ということに尽きるのだろう。

学び合いに賛成も反対もしないけれど

1つ目の記事

>(文句や批判を言わずに)国の政策や方針に素直に従い、ひたすら長時間労働に耐え、国に利益をもたらす高度なグローバル人材の育成にあるのだろう。

これはもちろんAI人材を作りたいわけではない。
思考は柔軟に、しかし体は頑強で、心は従順たれというわけだ。

「考える葦」ならぬ「考えるロボット」の育成を目指すわけだが、「考える」からこそ「盲目的に従うわけにはまいりません」「よりよい社会は作りたいとは思うが、よりよい人生と相反する点もございます」という思考も生まれてくる。


>体験学習に積極的に参加できる/できない、自分の意見を適切に発表できる/できないによって、個人の学力や能力は、クラス全員の面前にさらされ、「できる子」と「できない子」がこれまで以上に一目瞭然となる。

これはアクティブラーニングが悪いという根拠にはならない。
厳然とした学力差がある以上、どこかで露呈するのは一斉授業でも同じだ。

>「できない」子どもは劣等感を増幅させ、学習から逃避していくだろう。学力そのもののみならず、自己肯定感や学習意欲といった感情の格差によって、学習共同体である学級や授業が分断されかねない。

繰り返すが、学級分断はアクティブラーニングのせいではない。
だが、この視点は重要だ。

学びの共同体は「トランポリン効果があるから大丈夫です」と言うだろう。
だがそれも場合による。
信頼関係なき学び合い、つまりはケンカする子ども同士の学び合いは逆効果だ。
ほっとかれたがっている子どもだっている。

「ああ、知ってると思って油断してたけど、そういう発想はなかったわ」
とか、
「おっ、知識・技能面では自信がなかったけど、自分の経験や意見も捨てたもんじゃないな」
とか、
そういう『それぞれの学び・成長』をいかに保障するか、なのだ。

多くは教師の姿勢によるんだろうけども…
「誰からでも学びうるものはある。積極的に学ぼう」と指導者が思い、
「この子は今どんな思考をしているんだろう。それともフリーズしているのか」と多様な思考に寄り添い、
「できないならできないで、なぜできないんだろう」と考えた上で助言する姿を見せねばならない。

さもなくば、
「この俺様が教えてやる」
「俺のやり方が一番なのに、なぜ従おうとしない!」
といった勘違いが教える側に生まれたり、
「ホレ、学び合いだろ。とっとと教えに来い」
「お前の教え方は嫌だ。あの子に教えてもらう」
という、教えられている側が偉いかのような逆転現象まで起こりかねない。

>全国の教室の授業も子どもの学びも個性化どころか、国の方針に沿った画一化に向かうのではないだろうか。

これはねぇ、画一化できるほどカチッと決まってないんですよ。
「とりあえずグループワーク入れました」的な授業が横行するんじゃないですかね。

>教師にとっては、授業の準備にともなう業務量の増加やこれまで以上の多忙化につながるおそれもある。現場の実態にあった教育施策、とりわけ教師の働き方改革を含めた学校教育の条件整備が求められている。

同感。

>また、教師のみならず、子どもたちも現実の政治や社会のあり方を批判的に学び考え、自身の意見を表明できる自由や少数意見を認め合える寛容さが教室のなかにじゅうぶんにあるだろうか。忖度や自己規制が働きはしないだろうか。

これも超同感。
自力解決とともに、多様性も尊重されるべき。

2つ目の記事

>「人に教えてもいいけれど、もっと自ら学ぶ時間がほしい」

それ、担任に伝えたのだろうか。
「なんとなく言えない」であれば、雰囲気としてはまだまだなんだろうなぁ。
「渋々やっている」なんて、相手にも失礼。指導者は気づいているんだろうか?

>「教えることも、教えられもせず、配布されたプリントを淡々と解くだけ。単なる自習のような状態になる場合もある」

へ?
これ、振り返り問題? それともメイン?
メインだったらありえん…

>高校で級友に教えを請うと「あなたの方が成績が良くなる」と断られたそうだ

正直すぎる(笑)
「教えることで理解を確かなものにしなさい」っちゅうのは伝えてあるのかな?

>そんな中、生徒が教え合うことを意識するあまり「先生が教えることを放棄していないか」といった声も、保護者からは聞かれた。

ケアは遠慮せずお願いすればよいと思う。
我が子が自分で気づき、自分で成長できるのなら、別に先生の出番は必要ない。

自分のスタンスとしては、学び合いは必要になれば自然発生的にすればよいと思っている。
その前に自力解決力をつけることと多様性を認めること。
学び合いにこだわる必要はない。

マンネリ

1年生としてのKが終わった。
学校では生徒指導的なところでちょこっと注文をつけることはあったが、穏やかに過ごせた。
一方どんぐり問題1mxも、時刻や時間が絡む問題に悩まされたが、うまく解けるようになった。

が…
なんというか、ひまわり組、ダンゴムシ小学校、電線亀…
ちょっとマンネリ化してきた。
もちろん、仕掛けはいろいろ入っているのだろうけども。
絵がワンパターンになってきたわけだ。

年長問題のすごさを再認識。
で、ちょっと活を入れるために、ミッコロちゃんの不思議解法に刺激を受け、2mx85をさせてみた。

といっても、問題文の意味が分からんと思われたので、最初に30枚を分けるときで解説。
それから、余ったカードは買いに行った人がもらえる、という想定でレッドカードが好きな人ならレッドカードを最高枚数買うし、ホワイトカードが好きなら、レッドカードは最低枚数買う、という話をした。

久しぶりの悪戦苦闘ぶりが見ていて楽しい。
「これが2mx? 桁違いに難しいんだけど。アリッサの2,3倍くらい難しかった…」とのこと。

グリッドサッカー

こういうことを言っちゃうと反発を受けるかもしれないが…
サッカーが苦手な子が多いのは『サッカーが得意な子』のせいだと思う。
ボールが当たると痛いし、怖いし、レベルの差が大きいし、「任せとけばいいんでしょ」みたいな。

決して得意な子が悪いわけではない。
それぞれの得意分野で一生懸命やっている。
(たまにキツイ言葉で嫌われる子もいるが)

で、「得意な子たちだけでやっていればいいじゃない」という雰囲気にさせないために、子ども達を『分割』した。
まずは10m×20mのコートを4面作った。
30人だったらまあ、1コート7・8人か。
それが2チームなので3・4人で対決。
で、コートをさらに分割し、1エリアに入れる人数を1・2人に限定した。

無題
※図は右上が赤チームの、左下が白チームの自陣。今は白チームの攻め2人が赤チームのゴール(右)に迫っている。

絶対に自分が仕事しなきゃいけない。
嫌でも役割が回ってくる。

さらに「攻められてばかりじゃつまんない」ので、外野は邪魔されないようにした。
カギカッコの形の部分であれば、自由に攻め上がれる。手も使っていい。
スローインでもキックインでもいいから、とにかく邪魔されない。

「エリア別役割分け」と「相手人数制限」。
この2つで「お任せ」意識はかなり吹き飛んだ。

やり方はこんな感じ。
(1)自陣ゴール前に集まって、守るゴールと攻めるゴールを確認。
(2)自分の「攻め・攻め・守り・外野」の役割を決める(守りも手は使わない。寝転がらない)。
(3)班長がボールジャンケン
(4)ジャンケンに勝ったチームの外野からスタート(動いて、守りか攻めの味方にパス)
(5)点を入れた子は外野に行き、外野は守りに入り、守りは攻めに加わる。
(6)点を入れられたチームは外野がボールを取りに行き、そこから素早くリスタート。
(※責められているとき、すでにゴール後方に回っているとよい。点が入っても入らなくてもすばやくリスタートできる)

そうすると、運動が苦手な子でも、必死に攻め・守る。
時には痛い思いもするが、「泣いてもうやめる」ではなく、「泣いてもまた戻ってくる」子になってきた。
ファウルは相手チームの「間接フリーキック」からリスタート。

ただ、苦手な子の多いチームは点ばかり取られてポジションが固定されてしまう。
だから、2連続失点したチームは攻めの2人でジャンケンし、どちらかが点をとったつもりで外野に回らせた。

多少ルールが複雑なので、丁寧な説明が必要だったが、始まってしまえば意識すべき相手は少ない。
あとで必要なことは指導者が勝手モンを統制するくらいで、作戦を立て、声をかけ、ノビノビやっていた。

特にヒマなイメージのある「外野」が走りっぱなしなところが面白い。
守りはうまいことボールを奪っても、攻めがまだ2人いて落ち着いてパスが出せないので、外野をよく活用するのだ。